2004年より始めた外洋航海の訓練の仕上げとして小笠原諸島の父島への往復航海を行った。
父島は北緯27度05分東経142度12分に位置し本州最南端の潮岬の南東約500マイルのところにある。
長期航海訓練という意味合いで母港の泉大津港から父島の二見港の間を無寄港で往復することにした。
往路は父島へ直線の航路を取ることが出来たが、復路は黒潮を迂回する航路をとったので結果的には往路600マイル、復路700マイル、合計1300マイル、約12日間の航海となった。
年月日 | 時刻 | 位置 | 針路 | 速度 | 天候 | 気圧 | 気温 | 風向 | 風力 | 航海距離 | 備考 | |
北緯 | 東経 | 度 | kt | hPa | ℃ | マイル | ||||||
2007/05/11 | 07:30 | 泉大津出港 | ||||||||||
2007/05/11 | 12:00 | 34° 14′ | 135° 02′ | 200 | 6.0 | 晴れ | 1011 | 18 | NNW | 3 | 25 | |
2007/05/12 | 12:00 | 32° 30′ | 136° 20′ | 165 | 晴れ | 1014 | 21 | W | 4 | 129 | ||
2007/05/13 | 12:00 | 30° 48′ | 138° 17′ | 125 | 5.5 | 曇り | 1011 | 22 | NW | 4 | 143 | |
2007/05/14 | 12:00 | 29° 22′ | 139° 48′ | 149 | 6.9 | 曇り | 1018 | 24 | S | 1 | 117 | |
2007/05/15 | 12:00 | 27° 38′ | 141° 33′ | 130 | 6.5 | 晴れ | 1019 | 25 | NW | 3 | 139 | |
2007/05/15 | 20:00 | 47 | 二見入港 | |||||||||
合計 | 600 | |||||||||||
2007/05/31 | 13:00 | |||||||||||
2007/06/01 | 12:00 | 27° 50′ | 140° 41′ | 300 | 4.5 | 晴れ | 1013 | 25 | N | 2 | 93 | 二見出港 |
2007/06/02 | 12:00 | 28° 33′ | 138° 44′ | 288 | 5.5 | 曇り | 1018 | 24 | E | 2 | 112 | |
2007/06/03 | 18:00 | 29° 51′ | 136° 20′ | 時化 | SE | 9 | 148 | |||||
2007/06/04 | 12:00 | 29° 59 | 135° 31′ | 320 | 4.0 | 曇り | E | 6 | 47 | |||
2007/06/05 | 12:00 | 30° 55′ | 134° 40′ | 350 | 4.5 | 晴れ | 1016 | 24 | NE | 2 | 71 | |
2007/06/06 | 12:00 | 32° 12′ | 134° 26′ | 342 | 5.0 | 晴れ | 1016 | 28 | NE | 1 | 78 | |
2007/06/07 | 12:00 | 34° 01′ | 135° 02′ | 10 | 6.0 | 晴れ | 1016 | 25 | SE | 1 | 113 | |
2007/06/07 | 20:00 | 38 | 泉大津入港 | |||||||||
合計 | 700 |
何時ものことながら出港前の2~3日は天気図と睨めっこである。9月11日09:00の予想天気図では、東北の東海上に992hPaの低気圧があり、九州の西の東シナ海には1018hPaの高気圧があり、大阪は丁度その合間に位置していた。北風が期待できる良い条件であり移動してくる高気圧の下を航海できると判断し11日の07:30に泉大津を出港した。
期待通りの北風を受けての航海であったが、波浪が激しくメインセールを揚げる機会を失してしまい、ジブセールだけでの航海を強いられたため、船のローリングが激しく完全に船酔いになってしまった。
14日の14:00ごろ渡り鳥と思われる1羽の鳥の訪問を受けた、父島まで170マイルの地点であった。なかなか気品のある顔立ちの鳥で羽を休めるために立ち寄ったものだろう、翌日の10:00ごろまで船から離れずに過ごした、夜には私がキャビン内に入ると風当たりのないコックピットに入り寝ていた。
夜間にワッチのため私がコックピットに上がっても鳥は私に気付かず熟睡していた、睡眠の邪魔をしないよう気遣った。
何処から来て何処を目指しているのか知る由もないがたった1羽だけで大海を旅をしているこの鳥に私と重なる部分を感じてエールを贈った。
出港して3日間は何も食べられない状態であった、このような激しい船酔いは始めての経験である。ローリングが船酔いの直接の原因ではあるが、陸の生活から馴染み期間無しで海の生活に急に入ったこともその大きな要因ではないかと思っている。
好奇心が強くキャビン内を観察していた
日々の外洋波浪図(気象庁HPより)
赤色の十字マークは[空海」の位置を示す
父島の二見港の港外に着いたのは5日の20:00頃で真っ暗であった、二見港丸山指光灯を確認し光路上(右図の黒矢印の線)を進入して行った。二見漁港の入り口の南側にある浅瀬を意識して、二見桟橋の手前にある青灯を目指して、桟橋を視認してから桟橋に沿って漁港に入って行こうと考えていた。
そのために、指光灯の光路を二見漁港の赤灯を真北に見る地点まで進入後に転進し青灯を目指す予定であった(右図の青線)。しかし実際には転進する地点が早すぎて右図の赤線の航路を採ってしまい座礁するという失態を起こしてしまった。
早く入港したいと云う心理が強く働き転進の地点を早めたものと思う、昼間であれば周囲の状況が見えてこのようなことは起こさないと思うが夜間に入港したことで引き起こした事故である。
今回の事故を契機として今後「空海」は初めての港への夜間入港を禁止する規則を制定した。
なお、次回以降の入港航路は右図の黄色の線にするつもりである。
座礁時は大きなショックは感じなかったが、大音響がありその瞬間は何事が起ったか理解できなかった、懐中電灯で周囲の海を照らすと水中に岩礁が点在しているのが見えた。一時間ほど自力で脱出を試みたが成功せず、最終的に海上保安庁に救助の依頼をした、保安庁の船を待っている間は低速でスクリューを後進に回し続けていた、保安庁の船の明かりが見えた時になんと「空海」は自然に離礁し、それまで岩礁と当たる度に生じていた大音響(その都度心臓が止まる思いをしていた)が消え静寂の時が訪れた、全く幸運なことであった。保安庁の船に付き添われて自力で二見漁港の非難岸壁に着岸した、着岸後すぐに、保安官が潜水し損傷状況を確認しキールの付け根には異常がないと告げてくれたのは驚きでありその機敏な処置に感激した。
陸揚げの状況
小笠原ヨットクラブ(OYC)が所有している船台を使用して「空海」の陸揚げが可能であることが判り、港湾局から岸壁の使用許可をもらい、陸揚げを行った、この際にOYCの皆様には大変お世話になった。
損傷はキールの前部が酷く1cm程度の深さでえぐられていた。「空海」のキールは船体と一体成形されたFRPの袋の中に鋳鉄の重しが入られているいわゆるワンピース型で大多数のヨットで採用されているキールと船体をボルトで接続する方式ではない。
このタイプの場合は船体とキールの付け根の部分はボルト付けと比較して頑丈であるが一方今回のように破損が生じると破損部から浸水する可能性がある。
今回の場合もビルジポンプが正常に働けば問題の無い程度の量の浸水が生じた。
浸水を防ぐためにFRPで仮修理を行った、FRP補修作業はダイビングショップ「KAIJIN」のご主人のお世話になった。
損傷状況
完全修理の状況
現地での修理の状況
完全修理の状況
泉大津に帰港後に完全修理を行った。修理はキールの前面、下面、後面およびキールと船体の付け根部分をすべてをガラスマットとロービングクロスの組み合わせを4層施工、最終層をガラスマットにゲルコート仕上げを行った。この修理により施工部のFRPの厚さは50%増しとなり強度が大幅に増加したものと期待している。
父島は小笠原群島(北から南に聟島列島、父島列島、母島列島と並んでいる)の父島列島の最大の島である、現在人が住んでいるのはこの島と母島だけで他の島は無人島である。父島には飛行場がないのでこの島に来るためには東京港竹芝客船ターミナルから出ている客船「おがさわら丸」を利用しなければならない。この船はだいたい週1便便就航し、22.5ノットの航海速度で東京と父島間1000kmを25時間30分で結んでいる。したがって東京から父島を往復するためには1週間単位で計算しなければならない。父島の生活は「おがさわら丸」の入出港日を単位としてリズムが出来ている、出港の翌日は平日でも休んでいる店が散見され、また逆に入出港日が休日の場合は店を開いている。
小笠原諸島は1593年小笠原貞頼に発見されたと伝えられている。小笠原群島は江戸時代には無人島(ぶにんしま)と呼ばれていた、これが現在の英語名Bonin Islandsの由来とされている。最初に人が定住したのは江戸時代後期の1830年白人(5人)とハワイの先住民族(20数人)である。1853年には日本に開国を要求したアメリカ海軍のペルー提督が6月14日父島二見港に寄港し移住民代表から貯炭場用地を購入している、ペルーはその後琉球を経由して浦賀に来航し、「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった4はい(4隻)で夜もねむれず」という大きな衝撃を日本にもたらした。小笠原諸島は1876(明治9)年に日本の領土として国際的に認められた。太平洋戦争の敗戦により米軍の占領下に置かれた後1968(昭和43)年6月、小笠原諸島は日本に返還され今日に至っている。
尚、先史時代の小笠原諸島を語る遺跡がこれまでに父島、母島、北硫黄島で発見されている、これらの遺跡から2000年前以降に先史人集団が定住もしくは漂着した可能性を示す遺物が出ている、また9世紀~16世紀にマリアナ先史人(ラッテ人)が遺したと思われる磨製円筒石斧が北硫黄島、父島、八丈島で発見されている。広大な太平洋の孤島を往来した先史人はどのような船で航海したのであろうか?
二見漁港内で外来ヨットが繋留できるのは避難岸壁と呼ばれている場所である、東京都の支所に入出港届けを提出し無料で繋留できる。漁港の入り口が南に開いているので南風が吹くと波が入ってきて居心地は良いとは言えない。
下の写真は二見漁港の全景である、写真の左に避難岸壁が写っている、地元のヨット2隻は避難岸壁と直角に設けられた一文字の外側に船首をアンカー、船尾を一文字に繋いで留めている、強風時には波で船首のロープが切れることもあるらしい、漁港だから漁船優先となるのは仕方ないがヨットにももう少し配慮してもらえないものかと感じる。
メルボルンー大阪 ダブルハンドレースに参加し帰る途中のオーストラリアのレース艇2隻が台風2号を避けるために二見港に避難入港してきた。
船名は「ハラバルー」と「リュウジン」である、右の写真で私の両側が「ハラバルー」の乗員で親子での参加、左端が「リュウジン」のスキッパー右端がそのクルーである。
非難岸壁に同時に4隻のヨットが停泊するのは初めてのことだそうだ。
このとき「空海」を陸揚げしたのであるが、OYCが保管している船台を運ぶ手伝いを気軽に引き受けてくれた。台風通過後に太平洋縦断に向けて何の気負いも無く出港して行く彼等を見て本当に素晴らしいヨットマンだなと思った。
繋留位置:N27°05′55.3″E142°12′00.6″
前方に停泊しているのはグアムまで行ったESPLNADE(横浜)
小笠原の海はダイバーなら一度は潜ってみたい夢のスポットである。
昨年の八丈島以来一年ぶりにダイブショップKAIZINにお世話になりダイビングを楽しませてもらった。
KAIZINの奥さん山田和子さんは外洋航海をしているヨットは必ずお世話になっているアマチュア無線のネットワークであるオケラネット(21.437MHz)のコントローラーを長年勤められている(JD1BBH)。毎日12:20~13:00に声を出しておられる、現在は子育ては終わったもののダイブショップの本職のかたわらほとんど休みなく続けておられる熱意には驚くばかりである。
右の写真の左から二人目が和子さん、その左がご主人である。
5月22日には台風2号が父島に最接近したが被害はなく胸をなでおろした。キールの応急修理も終えて5月24日に「空海」を降ろした。
前線の通過を待って5月31日13:00に父島を出港した。この時期は本州南岸を低気圧が東から西へ進んでいくことが多い、できればその合間を通って帰着したいと願っていたが、願いは叶わず右の波浪図に示す通り、6月3日から4日にかけてバッチリと低気圧の洗礼を受けた。
10mを超える波は初体験であった、大波の頂上付近に見られる青氷のような塊がなぜ発生するのか理解できないが不気味であった。6月3日の日没から漂泊を行った、シーアンカーを流す準備をしていなかったので何もせずに船を流した、船は波に直角に漂いピッチング、ローリングともに大したことはなかった。
しかし4日の03:00ごろ、大音響とともに大きな衝撃を受けて、右舷で寝ていた私の体はキャビンの左舷側まで飛ばされてしまった。
キャビンのテーブルを床に取り付けていた金物が壊れテーブルが倒れてしまった。恐らくこのころに低気圧が空海の真上を通過していたのだと思われる、幸い身体には異常なく、船体も損傷はなかった。
リュウジン
ハラバルー
KAIZINで開いていただいたお別れパーティー
004年の屋久島往復航海から始めた外洋航海の訓練航海は今回の父島往復航海で終了する、航海距離の合計は4300マイルになった。これで最初の外洋航海の目標であるサモア往復航海の準備は出来たと考えている、2008年には挑戦するつもりである。
父島滞在中は小笠原ヨットクラブの皆様に大変お世話になりました、会長のKさん、役員のNさんありがとうございました。
今後も太平洋への玄関口として父島を訪問することがあると思います、よろしくお願いします。