10月23日午前6時に泉大津を出港する、前夜から泊り込み周囲が白みはじめるを待って舫い綱を解く、友が島水道の潮流は04:21から11:33の間が南流なのでもう少し早く出港した方が潮流を利用するには好都合であるが10月20日に通過した台風23号の雨で河川から吐き出された漂流物が海上を漂っている恐れもあったので暗闇の航行は避けた。なお、台風24号がフィリピンの東を西北西の方向に進行中であったが中国大陸に抜けていくだろうと判断し出港することにした。
今回の航海は私の単独遠距離航海の記録を更新するものであったが春に屋久島往復の航海をしていることから特に気負いもなく舫いを解いた。
目的地は沖縄の久米島で往路は島伝いに南下し、復路は黒潮に乗って途中無寄港で一気に室戸岬あたりまで帰ってくるというのが今回の計画であった。
この航海をするに当たり「空海」の航行区域を沿海から遠洋に変更することにし臨時検査を10月7日に受け13日に船舶検査手帳の交付を受けた、これで法的には日本沿岸から20海里という制約が無くなり世界中何処でも航海することが可能となった。
往路 | ||||||||
レグ番号 | 出港 | 入港 | 航海時間 | 航海距離 | ||||
港名 | 日付 | 時刻 | 港名 | 日付 | 時刻 | 時間 | マイル | |
1 | 泉大津(大阪) | 10月23日 | 06:00 | 伊島(徳島) | 10月23日 | 14:30 | 8.5 | 52 |
2 | 伊島(徳島) | 10月24日 | 06:40 | 土佐清水(高知) | 10月25日 | 07:00 | 24.3 | 123 |
3 | 土佐清水(高知) | 10月27日 | 13:30 | 油津(宮崎) | 10月28日 | 12:30 | 23.0 | 100 |
4 |
油津(宮崎) | 11月01日 | 04:30 | 西之表(種子島) | 11月01日 | 14:40 | 10.2 | 58 |
5 | 西之表(種子島) | 11月03日 | 07:40 | 栗生(屋久島) | 11月03日 | 16:00 | 8.3 | 48 |
6 | 栗生(屋久島 | 11月04日 | 09:00 | 西之浜(口之島) | 11月04日 | 14:00 | 5.0 | 32 |
7 | 西之浜(口之島) | 11月05日 | 06:30 | やすら浜(悪石島) | 11月05日 | 14:00 | 7.5 | 38 |
8 | やすら浜(悪石島) | 11月06日 | 03:30 | 名瀬(奄美大島) | 11月06日 | 14:00 | 10.5 | 64 |
9 | 名瀬(奄美大島) | 11月07日 | 04:00 | 亀徳(徳之島) | 11月07日 | 14:00 | 10.0 | 60 |
10 | 亀徳(徳之島) | 11月08日 | 05:00 | 茶花(与論島) | 11月08日 | 15:00 | 10.0 | 56 |
11 | 茶花(与論島) | 11月10日 | 09:00 | 伊江(伊江島) | 11月10日 | 15:10 | 6.2 | 40 |
12 | 伊江(伊江島) | 11月11日 | 08:00 | 宜野湾マリーナ(沖縄島) | 11月11日 | 14:00 | 6.0 | 27 |
13 | 宜野湾マリーナ(沖縄島) | 11月14日 | 09:30 | 座間味(座間味島) | 11月14日 | 14:30 | 5.0 | 28 |
14 | 座間味(座間味島) | 11月17日 | 10:30 | 兼城(久米島) | 11月17日 | 15:30 | 5.5 | 34 |
往路合計 | 140.0 | 769 |
往路 | ||||||||
レグ番号 | 出港 | 入港 | 航海時間 | 航海距離 | ||||
港名 | 日付 | 時刻 | 港名 | 日付 | 時刻 | 時間 | マイル | |
15 | 兼城(久米島) | 11月20日 | 10:40 | 伊江(伊江島) | 11月21日 | 13:30 | 26.7 | 80 |
16 | 伊江(伊江島) | 11月23日 | 07:00 | 古仁屋(奄美大島) | 11月24日 | 16:00 | 33.0 | 134 |
17 | 古仁屋(奄美大島) | 11月28日 | 05:50 | 栗生(屋久島) | 11月29日 | 17:00 | 35.2 | 155 |
18 |
栗生(屋久島) | 12月01日 | 09:00 | 油津(宮崎) | 12月02日 | 14:00 | 29.0 | 111 |
19 | 油津(宮崎) | 12月06日 | 11:00 | 佐伯(大分) | 12月07日 | 10:00 | 23.0 | 104 |
20 | 佐伯(大分) | 12月08日 | 06:20 | 三机(愛媛) | 12月08日 | 15:00 | 8.7 | 43 |
21 | 三机(愛媛) | 12月09日 | 07:00 | 北条(愛媛) | 12月09日 | 15:30 | 8.5 | 41 |
22 | 北条(愛媛) | 12月10日 | 05:00 | 都志(淡路島) | 12月11日 | 08:00 | 27.0 | 114 |
23 | 都志(淡路島) | 12月12日 | 11:30 | 泉大津(大阪) | 12月12日 | 17:00 | 5.5 | 39 |
往路合計 | 196.6 | 821 | ||||||
往復路合計 | 336.6 | 1590 | ||||||
エンジン使用時間 | 407時間 |
燃料消費率 (リッター) |
エンジン運転時間当たり | 航海時間当たり | 航海距離当り | |||
燃料消費量 | 648リッター | 1.6 | 1.9 | 0.4 |
23日の天気図から分かるように移動性高気圧が近づいてきていたので2~3日は好天が続くと期待していた、美しい朝焼けに送られて泉大津を出港し、北ないし北西の10kt前後の順風を受け最初の寄港地である伊島まで快調に航海した。翌日も前日と同様好天で室戸岬には15:20にたどり着いた、これまで心配していた台風による漂流物に出会うことがなかったので漂流物との衝突の心配はないと判断しそのまま航海を続け夜間に土佐湾を横断することにした。
夜間航行時は万一漂流物に衝突してもダメージを小さくするため船速を5kt以下にすることにしている、また他の船との衝突を避けるため1時間毎にワッチをすることにしている。したがって夜間航行中は連続して睡眠を取れず、40~50分間の細切れに取ることになる、シングルハンドの辛いところである。
足摺岬にはまだ暗い25日の05:20に着いた、GPSのプロッターを頼りに岬を回り07:00に土佐清水港に入港した。翌26日は休養日とした、大陸の方へ抜けると予想した台風24号が台湾付近でU-ターンし九州の南の海上を東進していたので日向灘は荒れていたと思われるが、土佐清水港は雨ではあったが静かであった。
蒲生田岬 東より望む
室戸岬 西より望む
土佐湾での夕日
土佐清水港
油津まで(109マイル)行くことにし、日向灘の中央部で夜間航行となるように土佐清水を27日の13:30に出港した。土佐清水沖では無風状態であったが離れるにしたがい北から北東の風を受けて航海し、油津沖では白波が出ていたが順風なので快適であった。
愛艇「空海」はビームが広くずんぐりした船型であるのでキャビンが広く居住性は良いが帆走性能、特に登りの性能は良いとは言えない、私はそれをエンジンで補っている。メインセールは常に3ポイントリーフとして港外でのリーフやリーフ解除の作業は行わない、風向きが良いときはローラーリーフのジェノアジブを出し入れして風を受ける、エンジンは常に回していて船速に応じて回転数を変更する、夜間はジブセールを仕舞い3ポイントリーフのメインセールとエンジンで走る、これが私の航海中の走り方である、それではヨットの走りではないとの批判の声が聞こえそうであるが、航海中のデッキ上での動きを極力無くすることがシングルハンドで航海中に落水を防ぐために最も重要なことと思っている、安全第一。
29~31日は九州の南に前線が発生したので油津港で待機した、この間油津は雨であった。
11月1日前線が東へ遠のき天候が回復したので未明に油津港を出港し種子島の西之表港を目指した。18~20ktの北の風を受けて数時間は珍しくエンジンを切り帆走した、大隈海峡の中ほどに潮流の影響によるものと思われるが非常に波の悪い海域があり、そこを通過する際に酷いピッチングでHFのアンテナのアンテナサポートへの取付け部が破損してしまった。
西之表港の旧漁港は他港からきた漁船で満杯状態であった、かろうじて残っていた九電の燃料荷揚げ場に横付けすることができた。
油津港を望む
油津港
油津のシンボルとなっている堀川運河の風情、映画「男はつらいよ」の「寅次郎の青春」で紹介された。写真の左の家と石の階段は映画の一場面となっているそうである、昔ながらのどこか懐かしさを覚える。
油津港 津の峰より望む 写真左下の港内に「空海」(白丸)が小さく写っている。
都井岬 東より望む
西之表港
西之表港では春に入港する際に大変お世話になった中野氏と再会することができた、2日は燃料と水の補給を行い、3日に屋久島の栗生港に向け出港した、いよいよこれから先が初めて乗り入れる海域である。
高気圧の東の縁にあったせいか、天候は曇りでにわか雨があった、18kt前後の北西から北北西の風を受け14:40に屋久島灯台を通過し栗生港まで快走した。栗生港では漁はあまり盛んではないようで係留場所には余裕があり外部から立ち寄る者にとってはありがたい、奥まった泊地には外海の波が全く入ってこないので船は微動もせず非常に居心地がよい。
11月4日、栗生港を出港し口之島の西之浜漁港を目指す、好天で海上は穏やかであった。西の浜漁港はがら空きの状態で係留場所に苦労することはなかったが、波が港内に入りこみ船が揺れてあまり居心地はよくない、民宿「くろしおの宿」で風呂と豪華夕食のお世話になった。
11月5日、口之島を出て、中ノ島、諏訪瀬島を左手に右手遠方には臥蛇島、平島を望みながら黒潮本流を横断する、中ノ島、諏訪瀬島の火山は活動しており噴煙が見える。
14:00悪石島のやすら浜港に着いた、この間の風は北ないし北西で10kt程度、波は穏やか、気温22℃、晴れという好条件で船速6-7ktで走った。やすら浜港は小さい港であるが係留している船が少なく係留場所に困ることはなかった、港周辺には人影が全く見られず無人島かと思わせた、夕方に近くで操業していた漁船が夜を過ごすために入港してきた、その漁師に聞くと、この島の集落は離れたところにあり、人が港まで降りてくることは滅多にないということであった。
11月6日、好天が続くので宝島への寄港を取りやめ、次の目的地を奄美大島の名瀬として悪石島を03:30に出港した、悪石島で会った漁師にもらった疑似餌を使ってトローリングをすると全長80cmほどのしいらが釣れた。慣れぬ手つきで三枚におろし切り身に仕上げるまで二時間ほど掛かった、一部はさしみにして昼食とし残りはフライパンで焼いて保存した、捨てると魚に申し訳ないという気がして頑張って食べたが全部食べ終えるのに3日もかかった、これもシングルハンドの辛いところである、釣りをしたのはこれが最初で最後となった、魚のさばき方も、料理の仕方も今一でもっと修行しなければならない。
名瀬港は一番奥にある船溜まりの漁協の脇に係留した、明朝早く出港するということで係留を了承してくれた、燃料と水の補給を手早く済ませ、近くのホテルのサウナに入り翌日に備えて早寝した。
栗生港 写真中央の奥を左に折れると港の出入り口に通じる、左の建物は漁協、「空海」は左の船溜まりに係留した。
噴煙を上げる諏訪瀬島の御岳
屋久島灯台
屋久島 栗生港
口之島 西之浜港
口之島の民宿「くろしおの宿」の料理はすべて地で採れたもの、美味かった。
荒々しい悪石島の西側絶壁
悪石島 やすら浜港
釣れたシイラ
シイラ完成品
11月7日、04:00徳之島の亀徳港を目指して名瀬港を出港する、昨日後から入港してきた夫婦で沖縄を目指しているヨット「OSAKA BAY」の林さんも続いて出港してきた、こちらは明るくなるまでは船速を押さえて走ったので「OSAKA BAY」は先行していった。18kt前後の東の風を受け順調に亀徳港まで走り、亀徳港では先行した林さんが係留場所の案内をしてくれたので助かった、フェリー岸壁の裏側の船溜りに横付け係留したが我々の2隻が着岸したことで空き場所は無くなってしまった。
11月8日、05:00まだ暗い内に亀徳港を出港し与論島の茶花港に向かう、茶花港はさんご礁の中にあり入港に注意が必要である、入港に際して与論島の池田氏に電話で連絡を入れると港の入り口まで小船で迎えに出てきて港内を先導して係留場所まで案内して下さった。池田氏は中央公民館に勤められており、30フィートのヨットを所有している、残念ながらヨットは台風で損傷し修理のため陸上保管されていた、ビジター用としてのバースを確保し入港するヨットの世話しておられる。私も大変お世話になり、その暖かいもてなしに感激し滞在を1日延ばすことになった。
誘っていただき飛び込みで参加したパーティーでの色々な人が集まり楽しく語らい歌う南の国独特の雰囲気は忘れられない。
美しい海、暖かい人々、ヨロンパナ(花)ウル(珊瑚)王国はヨットハバーも建設中でヨット乗りのパラダイスになるだろう、近くに行った際には是非立ち寄ることをお勧めする。
ナーヤー、マタキュンドー(さよなら、またきます)。
与論島ホームページ
http://www.yoron.jp/
池田氏とヨット
船首と船尾が台風で破損している
徳之島 亀徳港 「空海」は写真中央に係留している
左側のヨットが「OSAKA BAY]
与論島 茶花港
11月10日、09:00与論島の茶花港を出て伊江島に向かう、いよいよ鹿児島県から沖縄県に入る、沖縄島の北端の山々が見えてくる、正午の気温が27℃、海水が25℃、気圧が1037HPa、快適な航海である。
伊江島は平らな島であるがその中にタッチューと呼ばれる高さ172mの独立の岩山がありその特異な姿は遠くから見ると際立っていて伊江島を見間違うことはない。
伊江島の伊江港も珊瑚礁の内側にあり、初めて入港するときは入港するフェリーの後に従うよう池田氏のアドバイスがあったので港外のブイの近くでフェリーが入港するのを待ちそれを追って入って行った。
伊江島では伊江中学校の校長先生である宮城氏、大阪から沖縄に移住した梶野、松野氏のお世話になった、宮城氏はトリマラン、梶野、松野さんはそれぞれTIKI 38というカタマランを所有しているヨット乗りである。TIKI 38はイギリス人James Wharram氏が自作者ように設計した全長38フィートの外洋カタマランで古代ポリネシアの外洋ダブルカヌーを発展させたものである。松野氏はこれを自作し梶野氏は半完成品を購入してそれぞれ当地で仕上げを行っているところであった。梶野氏は岸和田出身、松野氏は貝塚に船を置いていたという、私は阪南市に住んでいる、南泉州の人間3人がこの伊江島で一緒になったのである、世間は狭いというがなんという偶然であろうか。
松野氏の自作の経過は「カタマランヨットの自作と航海」http://www.geocities.jp/tikiroa_jp/に発表されているので参照されたい。
11月11日、08:00伊江港を出港し宜野湾港マリーナに向かう、出港時は凪状態、正午頃から南南西の風5~6kt気温26℃晴れ、のんびりと機走、マリーナに電話を入れ停泊を依頼する、ポンツーンは空いていないので岸壁係留とのこと、今回の航海で初めて係留費を払って泊まることになるのに岸壁係留とは、いつもの通り潮の満ち干きに注意して係留しなければならない。港湾案内で宜野湾港を見るとマリーナへのブイの航路を外れると珊瑚の浅瀬がすぐ近くにあることが示されている、のんびり航海から一転しブイの番号の確認と測深計に現れる水深の数値に全神経を集中させゆっくりとマリーナに入って行った、初めての港へ入港するときはいつも神経を使うが珊瑚礁にある港の場合の緊張は最高に達する。
当地では私が勤めていた会社の那覇にある沖縄営業所に駐在している吉田氏のお世話になった、13日に首里城と海洋博公園にある美ら海水族館を車で案内してもらい途中に今帰仁城址、座喜味城址、残波岬に立ち寄り丸一日お付き合いいただいた、現役時代に仕事で幾度か沖縄を訪れているが観光する機会がなかったので今回が初めての沖縄観光となり大変楽しかった。
11月14日、09:30座間味島に向け宜野湾港マリーナを出港する、珍しく南の風である、風速は5ktと穏やか、座間味港へは慶良間海峡を通らずに座間味島の北側を通過し西端を回りこむルートでアプローチした、この方が潮流の影響を受けることが小さく、向かい風になる距離が短くなると判断したからである。
座間味港には定期船船着場の正面に他の島から来る小船を係留するための岸壁が空けられていて、「空海」はそこに横付け係留した。
座間味島のある慶良間列島は世界でも有数のダイビングスポットとして知られているのでこの機会に潜って見ることにした、今はシーズンオフなのでガイドしてくれるのかなと心配であったが、電話をしてみるとやりますということなので予約を入れた。依頼したダイブショップは「ザマミセーリング」というところで、又吉氏がオーナーで38フィートのカタマランを使ってダイビング、チャーターヨット、サンセットクルージングを営んでいる。
15日、スタッフが急病になりやり繰りが出来ないためダイビングが出来なくなった、申し訳ないということで又吉氏が最近設置した定置網の点検のために潜るのでよければ一緒に潜らないかと誘われ同行することにした。定置網は巨大なものでその全体を見渡すことが出来ずどのような構造になっているのか良く分からない、又吉氏の後を追って網の中に入り出てきたが一人で迷い込むと魚と同じで出てこられなくなるのだろう、得がたい体験をさせてもらった。
16日、私と体験ダイビングをする若い女性1名、スタッフ1名、又吉氏の4名が乗船しカタマランでダイビングポイントに向かう、北風は島で防がれているが海面が波立っている、外海は相当吹いているようであった、気温、水温とも24℃で風に当たると少し寒く感じる。海水の透明度は2~30mとあまり良くなかたが、珊瑚や魚の種類は多く多彩であった、午後のダイビングで「いそばな」を初めて見た、フラッシュを発光させて写真に撮ると美しい赤色となるのだが、うかつにもフラッシュを強制発光させるカメラの操作方法を忘れてしまい撮り損なったのが残念であった。
11月17日、10:30座間味港を後にして最終目的地である久米島に向かう、島影を出ると北北東の風が15ktと白波が出ていたがブロードリーチなので楽に走れる。
久米島に近づくと飛原岩(とんばる)が見えてくる、それを過ぎて島に近づくと岸沿いにはリーフに砕ける白波が続いているのが見える、兼城港(かねぐすく)へ入る水路は珊瑚礁の切れ目にある、灯標が設置されており十分な広さがあるので灯標さえ確認すれば進入するのは易しい。港内を進んでいき、フェリー岸壁の奥に動いている形跡のない台船が係留されている岸壁に空き場所があったのでそこに係留した、北風で船が岸壁から離れるように押されるので好都合であった。
久米島には16年前の現役時代に担当して沖縄電力久米島発電所に納入した2000Kwのディーゼル発電装置が設置されている、発電所に見学をお願いすると快諾してくださり、再会することができた。現場の様子は当事と変わりなく懐かしさがこみ上げてきた、すでに相当の年月が経過しているので主力からは外れているがまだまだ働いてもらうとのことだったので「ご苦労さん私はリタイヤーしたけれど頑張って」と声をかけて帰ってきた。
沖縄美ら海水族館
座間味港
座間味の夕日
久米島 兼城港の入り口(写真の左手)
久米島 兼城港
伊江島 中央に見えるのがタッチューと呼ばれる岩山
タッチュー まるで地中海にでもある島のようである
梶野氏と松野氏(左)
梶野氏の38フィート カタマラン(TIKI 38)
松野氏の自作38フィート カタマラン(TIKI 38)
宜野湾マリーナ
守礼の門
吉田氏 残波岬にて
いそばな
又吉氏
久米島発電所
目的地までたどり着いた「空海」
11月20日、10:40兼城港を出港し帰路につく、18日に発電所を訪問したときに雨を降らせていた前線が東に去り、高気圧が移動してきたので2~3日は好天が続くと判断し出港することを決めた、黒潮に乗り少なくとも九州にはたどり着くという目算であった。久米島を離れ黒潮に乗るために12kt程度の北ないし北北西の風受け西に向かってアビームで走っている間は問題なかった、日没前に北に向けて走るためにメインセールを一杯引き込みセールが時々シバーする角度にオートパイロットを設定して走り出すと、激しいローリング、ピッチングに翻弄されるようになった、エンジンの回転数を下げなければ酷いパンチングに見舞われオートパイロット任せでは走れない状態であった。潮の流れと風向きが逆であるため2m程度の険悪な波が発生していて、GPSの船速が2~3ktを示し、時には1.5ktというような状態であったが夜の間は外に方法が無くそのまま走り続けた。21日の夜明けに伊江島の西約36マイルの地点に到達していた、黒潮に乗って北上するということは無理と判断し伊江島に向かい13:30伊江港に入港した。
丸一日かけて20マイル程度しか北上できず、泉大津までは500マイル北上しなければならない、帰れるかな?という不安がよぎった。22日は沖縄地方に海上風警報が出ていたので出港を見合わせ、バイクをレンタルし伊江島観光をした、岩山タッチューの頂上にも上ってきた。
11月23日、7:00伊江島を出港する、早朝であるにもかかわらず宮城氏が見送りに来て舫いを外してくださる、今回も大変お世話になった、ありがとう。警報、注意報は解除されている、東の風18kt前後、波高は1~1.5m、与論島へ行くつもりであったが伊平屋島の方へ流されていく、14:00には伊平屋島の北端を通過、与論島は真東となる。
与論島の池田氏に電話をしてこのまま北上を続けることを伝える、与論島にヨットを置いて帰ろうかと思い池田氏に連絡を取っていたのであるが与論島に寄ることを断念した。
翌朝の24日7:00には北緯27度58分、西経128度39分の地点(徳之島の西側約20マイル)到達していた、24時間で約80マイル北上することができた、この間ヨットは常に左舷側に15~20度ヒールして走った、よく走ってくれたと「空海」に感謝する気持ちが湧き上がり、一時置いて帰ろうかという気持ちになったことを恥じた、必ず一緒に帰ろうと声をかけた、ヨット自体は単なる物であるが長く航海していると一体感のようなものが出てきてパートナーとして人格を持っているように感じるようになってくる、お互いに命を預けあっていることからこのような感覚が生まれてくるのかも知れない、不思議なことだ。
東の風が弱まっていて真向かいの風を受けてもエンジンで走れる状態であったので奄美大島の古仁屋に向かうことにした。
24日12:30に奄美大島の与路島の北側に達し、請島水道を通り15:20に大島海峡に入り上げ潮に乗り16:00に古仁屋港に着くことができた。
古仁屋港で接岸作業をやっていると岸壁から声をかけてくれる人がいた、葛西氏である、葛西氏は古仁屋港に入港するヨットのためにゲストバースを確保して世話をしておられる、港の近くにある葛西氏の工場「夢工房夢丸」の壁一面に海外からのものを含めて膨大な数の寄港したヨットからの礼状が貼付されている、私もシャワー、洗濯、食事、車の拝借など大変なお世話になった。古仁屋には天候の回復を待って4泊することになった、3日目の夜には台風時の避難場所として葛西氏が係留ブイを施設している阿鉄湾に案内してもらいそこでヨット仲間の皆さんと鍋をつつきながら夜遅くまで談笑したことは忘れがたい思い出となった。阿鉄湾は四方を山に囲まれ台風避難泊地としては格好の場所である、葛西氏はさらにブイを増やし、岸辺にはテンダーの桟橋の設置、湾内の汚れを防ぐためにトイレの設置など遠来のヨットが安心して停泊できる環境を整えたいという夢を語っておられた、素晴らしい夢をぜひ実現してほしいと願うものである。
11月28日、奄美大島の付近にはまだ波浪注意報が出ていたが風警報は解除されたので出港することにした、08:40に大島海峡を抜ける、北から北北西の風であったが大島海峡で出口から屋久島に向けて引いた直線コース上を走れる状況であり、トカラ列島の島々は風上側になりもし流されても乗り上げる心配はないので安心して夜間航行が出来る。
パソコンが作動不良となり自船の位置のプロティングが出来なくなったので海図上に位置を記録しながらの航海となった。29日の夜明けには悪石島の東、屋久島まで60マイルの地点に到達していた、諏訪瀬島、中之島、口之島を左手に見ながら黒潮を横断し北上を続け、屋久島の栗生港になんとか夕暮れ前の29日17:00に入港することができた着岸作業が終わったときにはとっぷりと日が暮れていた。30日は休養日としゆっくりと昼間に尾之間温泉に入ってきた。
奄美大島 古仁屋港
古仁屋 高知山展望所より望む
向こう側は加計呂麻島
葛西氏(左)と山崎氏(中)
山崎氏はカタマランを自設計・自作し
加計呂麻に移住されている
阿鉄湾
写真の左奥を左に折れると湾の出口になる
12月1日、09:00栗生港を出港した、高気圧に覆われており好天が期待できたので悪くても土佐清水、良ければ室戸岬まで行くつもりであった、種子島の北で日没となる、徐々に北風が強くなり波の状態が悪くなり嫌な揺れ方をしだした、黒潮の影響が出始めたものと思われた、23:00に土佐清水に行くことは諦め油津港を目指すことにした、この地点で土佐清水までは134マイル、油津までは30マイルであった。
GPSのプロッターが使えないため陸地と自船の位置関係が定かでないので都井岬の灯台を目指して走り夜明けを待つことにした。夜明けの時点で都井岬の南2~3マイルのところに居た、北風は強く波は2~3mの高さになっていた、このまま油津に行くか志布志湾に入り内之浦港にでも入ることにするか迷った、しばらく都井岬の風下に入り様子を見た、少し波風が落ちたような気がしたので油津に行く決心をして都井岬を回り始めた、波風は落ちるどころか強くなっているようであった、都井岬の5マイルほど北にある陸地と築島と鳥島に囲まれて北風がブロックされる入り江にたどり着くまでに3時間はかかった、この入り江で1時間ほど休憩し昼食と燃料給油を行った後、岸沿いに油津に向かい2日の14:00に入港した、今回の航海で最も厳しい一日であった。
12月3日は休養日、4~5日は天気待ちで油津港泊まりとなった。4日は前線が通過し16:00~22:00の間は台風並みの大荒れとなり、油津構内は南の風で1mほどの波が立った、係留索が切れると一巻の終わりとなるところであったが幸運にも無傷で凌ぐことが出来た。
12月6日、池永氏の好意で送ってもらった、壊れたパソコンの代替品を郵便局で受け取り11:00に油津港を出港した、海はここ二・三日荒れていたのがうそのように一転し凪の状態であった、宮崎を飛ばして佐伯港まで行くことにする、GPSのプロターが復活したので夜間航行も問題ない。鶴御崎で夜明けとなるよう船速を調整し、佐伯湾に入り、7日の10:00に佐伯港に入港した。夜間航行をしたので8日は休養日とする。
12月9日、06:20夜明けとともに佐伯港を出港し三机港に向かう、09:00にオートパイロットが作動しなくなった、予備のオートパイロットを積んでいるので三机港で付けることにしそれまではラットを握ることにする、12:00に佐多岬を通過、15:00に三机港に入港した。不思議なことに今度はパソコンの電子海図のソフトが異常となりGPSのプロッターがまた使えなくなってしまった。
なお、帰港後に調べた結果、オートパイロットの作動不良の原因は配線の接続部の断線であり、オートパイロット自体が故障したものではないことが判明した。
佐伯港
佐多岬 南より望む
12月9日、07:00三机港を出港し北条港に向かう、オートパイロットは予備のST3000を取り付けた、これはラットをベルトで駆動する方式なのでラダーシャフトを直接動かせるST5000に比較して反応が鈍くクローズホールドの走りでブローが入った場合とかランニングでは「空海」を制御しきれないのでラットを握る必要がある。15:30に北条港に入港した、入港前の2時間ほどは北の風で白波が出ていたが残りの行程は凪であった。
北条港では池永氏が再度送っていただいたパソコンを持って池川氏が待っていて下さった、皆さまの親切には感謝の言いようがない、ありがたい。また偶然にも上田氏夫妻がヨットでなく車でクルージングして来られ当地で合流することとなった。
池川氏の建造されたヨット「花丸」を見せてもらった、高さが低めの2本マストのケッチの外観はいかにも外洋艇という感じがした、船体は堅牢に仕上がっているようで船内に入ると込められた池川氏の心魂が身に迫ってきた、素晴らしい船に出来上がっている、これからシェークダウンを積み重ねヨットとして完成し、そして長年にわたり暖められてきた夫婦での世界周航計画がそう遠くない時期に実行されることになるのであろう。
4時間ほどの間に権現温泉での入浴、奥さんの手作りの夕食と歓待を受け密度の濃い楽しい時を過ごさせていただいた、帰り際にいただいた弁当は翌日の朝食と昼食になり大変助かった。
12月10日、5:00まだ暗いうちに北条港を出港する、来島海峡の潮流が逆流に転じるのが10:11であるのでそれまでにこの難所を通過するため早めに出港した、初めての通過であったが海上はおだやかであったので助かった、航路は狭く曲がっていて周辺の地形も複雑なため風があるときにヨットで通過するのは苦労するだろう。
12月11日に淡路島の洲本で法事があるので11日の朝に都志港に入港したかった、そのためにひたすら東に走ることにした。
8:00に来島海峡を無事に通過し燧灘に入る、15:15に瀬戸大橋を通過、明るい内に播磨灘に入りたかったがそうは行かず、小豆島の手前で日没となってしまった、幸いGPSのプロッターが使えたのでそれを頼りに本船航路の右端を走った、次々と本船が追い抜いていくので前ではなく後ろに注意を払わなければならない、時々航路を横切る船があるので緊張する、20:30にようやく播磨灘に出る、本船航路から離れてほっとする、離れて本船航路を眺めると上りも下りも数珠繋ぎで船が走っているのが見え、その数の多さに驚かされる。
淡路島の西側の岸沿いには魚網がぎっしりと張られている、夜間に入港するのは危険である、都志港の10マイル沖で船を流し夜明けを待ち11日の8:00に都志港に入港した。法事には間に合うことが出来て面目を保てた。
12月12日、11:30都志港を出港した、いよいよ最後の航海である、下げ潮に乗り14:10に明石大橋を通過、「ほのぼの」河田氏から電話が入る、こちらを確認したと言う、迎えに出てきてくれたのである、こちらからも右方向約1マイルの「ほのぼの」を確認できた、天気は下り坂で雲が厚くなっていたが、ここまで来れば大丈夫である、17:00母港の泉大津に無事入港し50日間の航海が終わった。
12日の夜は河田氏と太平の湯に行き歓迎だということでご馳走になった、出ると雨が降っていた、明日はもう何処にも行かない、天気の心配をする必要はない。
池川氏の 「花丸」
上田(左)と池川の両ご夫妻
来島海峡 燧灘側より望む
瀬戸大橋 西側より望む